以前紹介した、土井善晴著「一汁一菜でよいという提案」のことを再び考えています。
そして、この本は誤解され易い本だと気づきました。
「一汁一菜でよいという提案」という名前だけ見てしまうと、「粗食のススメね」、とだけ思われる可能性もあります。
勘違いされる原因に、一汁一菜という言葉が「単純すぎる・明快すぎる」というのがあるのではないか?
と思います。しかもこの本は、最初の方で結論から書かれています。
「毎日、毎食、一汁一菜でやろうと決めてください。考えることはいらないのです。(省略)
「それでいいの?」とおそらく皆さんは疑われるでしょうが、それでいいのです。
わたしたちは、ずっとこうした食事をしてきたのです。
(「一汁一菜でよいという提案」より)
最も大事で伝えたいことを、最初に言われているのです。
大事なことを最初に言う?これ、どこかで聞いたことがあります。親鸞聖人の「正信偈」です。
親鸞聖人が書かれた「うた」であるところの「正信偈」
その冒頭は、
「帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい) 南無不可思議光(なむふかしぎこう)」
という文句で始まります。ラブレターだとするなら、いきなり「あなたが好きです」
と結論から書くようなもので、この二行にはすべてが入っています。
この二行は「南無阿弥陀仏」という言葉と同等だから、「ナムアミダブツ」でよいという提案でもあるでしょう。
「それでいいの?」とおそらく皆さんは疑われるでしょう?というところも人間の「疑」という問題において近いのです。
どうしても人間は疑います。「南無阿弥陀仏だけでよい」なんてすぐには信じられないのが人間です。
土井先生の本に戻ると、「一汁一菜でよい」とすぐには思えないのが人間です。いや、そうではないよ。
わたしの経験と、身体で受け取ってきた感覚でそれを証明できます。というのが土井先生です。
先生は「よいものは軽くてシンプル」ということをよく仰います。
だからこそ述べられる結論はいたって明快なのです。
ただし、そのあとは深く広い世界が広がっている本です。
文章も論理的なものが続くので、一度読むだけで直ぐ全ては理解できません。
一方、たくさんの経典を読み、そこからの解釈を伝えてくださった方が親鸞聖人です。
その真実を「言葉」だけで理解していくのはなかなか困難なことです。
でも、本当はまず「南無阿弥陀仏」と称えてみるだけでいいのでしょう。まず自分が。一人で。
同じように「一汁一菜」を作ってみればいいのでしょう。
まず自分が。一人で。でもできないのです。「疑い」があるから・・・。
土井先生は言われます。
「今は何でも専門家でなければその道のことをやってはいけない、話してはいけないようになっています。」と。
専門家に感動し、自分もやってみよう、そこでの経験を表現してみよう、でよいのです。
先生が著書で伝えているのは、身体感覚を信じよ。ということだとも思います。
だから土井先生は四の五の言わずに家庭料理作りに徹してきた「お母さん」への信頼が深いのです。
まず作ってみる。まず、念仏してみる。そして、そこから深く広がっていく世界の深さを、訪ねてみませんか?