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宗旨正法寺の宗旨をご紹介します。

名称 正法寺
本尊 阿弥陀如来
経典 仏説無量寿経(大経)、仏説観無量寿経(観経)、仏説阿弥陀経(小経)
宗派 真宗大谷派
宗祖 親鸞聖人
本山 真宗本廟(東本願寺)
住職 長野 道英(第21代住職)
所在地 〒856-0828 長崎県大村市杭出津2丁目708
電話 0957-52-2247

生い立ち正法寺の生い立ちについて紹介します。

正法寺の開基である道閑(どうかん)は
もともと肥後の人で加藤清正に仕えていたが、故あって
浪人となり慶長二年(1597)秀吉の死去した年に
大村の水主町に住む。
出家する以前からひたすら阿弥陀仏を尊信していた。
元和二年(1618)藩主喜前が逝去した時、
篤い恩顧を受けていた道閑は
喜前を弔うため水田町に正法寺を開いた。 ...全文を読む

正法寺の開基である道閑(どうかん)はもともと肥後の人で加藤清正に仕えていたが、故あって浪人となり慶長二年(1597)秀吉の死去した年に大村の水主町に住む。
出家する以前からひたすら阿弥陀仏を尊信していた。

元和二年(1618)藩主喜前が逝去した時、篤い恩顧を受けていた道閑は喜前を弔うため水田町に正法寺を開いた。

翌年からは藩主純頼の申し渡しにより東彼杵・西彼杵郡を廻って真宗を広め、藩主純頼は道閑のそれらの功績を京都の西本願寺に申請し、専念山正法寺の寺号と本尊の阿弥陀如来を乞い寺格を高めてやり、領内での真宗の法頭とした。

しかし村々が城下よりも遠く、説教や葬祭にも不便であったので、純頼の命で末寺を十一ヶ村に建立してもらい、そこの住職に宗務を任せた。

その後キリシタンの蜂起を恐れた二十二代藩主純長が寺請制と宗門改めを一層厳しくするため、正法寺の末寺を十ヶ寺建て増したので、末寺は二十一ヶ寺にも及んだ。

こうして万治三年の頃、正法寺は田町から草場小路の橋口に移り栄え、更に享保二年(1781)藩主純庸の時、杭出津の現在地に寺院を建立した。

正法寺第四世泰応が上洛した際に故あって末寺と共に東本願寺派(大谷派)に変った。

かくして法城を守り続ける事四百年。明治九年の本山の宗規改定に当たり従来の本寺末寺制度の廃止に伴い共に東本願寺の所属として今日まで栄えて来た。

(大村史話 志田一夫氏の文章より)

本堂写真
年号できごと
慶長2年(1597 道閑法師(正法寺開基)熊本より大村玖島城下に移住しお念仏をすすめる。
慶長7年(1602) 水主町に草庵をもつ。
丹後守喜前公建営の草庵。
慶長12年(1607) 大村領内の真宗法頭の命を受ける。
元和3年(1617) 大村純頼公の命を受け領内30ヶ町村を巡化。
寛永9年(1632) 領内真宗本寺として御城代格式の待遇を受ける。
萬治2年(1659) 草場小路橋口に寺地を賜り移転す。
元禄13年(1700) 東本願寺に転入。
正徳6年(1716) 本町より出火し、本堂類燃す。
享保2年(1717) 大村純長公より杭出津の福井民右衛門の屋敷を賜り移転建立す。
天明元年(1781) 本堂焼失す。
文化5年(1808) 庫裡焼失す。
大正13年(1924) 本堂焼失す。
大正15年(1926) 本堂債権が決議され、昭和3年7月28日起工
昭和5年(1930) 3月落慶法要を厳修。
平成4年(1992) 本堂被災復興工事/落成法要
平成12年(2000) 蓮如上人500回忌・鐘楼堂改築落慶法要
平成18年(2006) 第21代継承者若院婚儀門徒披露法要
平成24年(2012) 21代住職継職披露/正法寺開基400年慶讃法要